餃子は心のお守り

冷凍餃子の自動販売機を初めて利用した。
24個で700円という値段設定だったので、二の足を踏んでいたが、買ってみた。
味は普通の餃子で、可もなく不可も無しといった感じだった。
しかし、いつでも餃子を食べられるのだ思うと、少しくらい嫌な事があったとしても「家に、冷凍餃子あるしな。」で乗り越えられる気がする。
餃子によって心の安定を図る寸法だ。

チルド餃子も美味しいが、賞味期限が短いので、まとめて焼き餃子にすることが多い、そして、全部食べる。
半分だけ食べようなんて考えは、出来立ての餃子の前では意味をなさない。
鉄は熱い内に叩け、餃子は湯気が立っている内に食えだ。

最近、定期的に自転車の空気を入れるようになった。
空気を入れてから、自転車がパンクする事が無くなった。

以前は、数か月に一回はパンク修理していたので、自転車は空気が抜けるものだと思っていたが、整備を怠っていただけだった。
自転車のブレーキグリップを押したら、ブレーキワイヤーが千切れた事があったが、あれは整備をしていないだけだったのか。
自転車の空気を入れて思ったのは、坂道移動が楽になったことである。
以前の自転車は乗り心地が悪く、自転車ハンドルが重かったため、この原因太ももの筋力不足だと思っていた。
そのため、ずっとスクワットをして太もも強化を目指していたが、そこではなかったようだ。
今回は自転車だが、定期的なメンテナンスが何事にも必要だという事か。

この眠気、他人事ではない

ここ数日とにかく眠たい、実際に睡眠時間が少ないのもあるが、体の芯から眠気が襲ってくるのでどうしようもない。
よくよく考えてみると、カフェインを摂取していなかったことに気が付いた。
ブラックコーヒーを好んで飲んでいたが、どうやらコーヒーが体質に合わない事が判明したので、最近は、紅茶やコーヒーやお茶を飲んでいる。
その中でも、持ち運びが出来て、気軽に使用できるので、粉末に加工された緑茶を愛用している。
今日も、バックから取り出そうとしたら、中に入っていた財布が緑色に染まっていた。
もう、何も言うまい。緑茶の粉末がバックの中で散乱していた。
メモ帳も、携帯電話も、記帳するため入れていた通帳も全部、緑色に染まっていた。
こういうミスが予測していたが、見て見ぬ振りをしていた結果がこの有様だ。
面倒くさくても予防をすれば良かったなと思っている。
こういう事が、姿、形を変えてくるのが人生なのだろうな。

数日前の話になるが、帰宅の際に煙臭かったので、何処かで火災が起きていると思った。
こういう時に、私の家が火災現場になっていたらと考えてしまう。
朝ガスコンロの火をつけたままで外出したりしていないだろうかと心配になる。

でも、家族からの電話も無いし、警察や消防からも電話が無いから大丈夫だと言い聞かせるが、帰宅ルートを進めば進むほど、煙が濃くなっていくので矢張り心配になる。

結局、火災は実際に発生していて、家は全焼したものの住人は全員無事で、ケガ人がいなかったのは幸いだった。
後日に、全焼した家の前を通ったが、ガラスが火災の熱と、放水による水圧で全部割れていたのが印象的だった。
他人事は自分事だ。
安心はしてはいけない、気を引き締めていく。

お腹を引っ込めない

年一回の健康診断に行ってきた。
会場は初めて行く場所だったので、それだけで疲労感が溜まっていく。
受付で呼び出し番号を渡されて、番号が電光掲示板で表示されたら窓口に行って書類を提出する流れだったのだが、私の番号が抜かされて表示されていたので一瞬困惑した。こういうのが心臓に悪かったりするのだから、スムーズにいってくれ。

間もなく、私の数字が表示されたので良かった。
健康診断を何度経験しても、採血は全然慣れない。ずっと横を向いている。
目もつぶっていたいくらいだが、気が付いたら終わっている。
私が子供の頃の採血と比べたら、痛みが全然無いが、それでも苦手だ。

お腹周りを測定するのに、メジャーを巻き付けた際にお腹を引っ込めるのはもう止めた。
少しでも良く見せたいという安いプライドがそうさせていた。
ここでは、そんなプライドは余計なのだ。
健康診断自体はとてもスムーズだったのだが、窓口に行った際「今日は、お名前ではなくて、番号で呼ばさせていただきます。」と説明があって、番号で呼ばれるたびに、気分は少し刑務所に収監された受刑者の気持になった。

ただ、これは刑務所でも、良い刑務所の方なので問題は無い。
人も沢山いたので、名前を省略した方が時間短縮になるのも頷けた。

帰宅しながら、今回の健康診断はスムーズだし、そんなに疲労感が無かったな。とぼんやりと思っていたが、途中でコンビニに寄った時に、バリウム飲んでいないことに気が付いた。
どうりで、身体の負担が無いわけだ。
そもそも、バリウム検査無しの簡易的な健康診断だったので、無いのは当然なのだが、バリウム検査がない健康診断はこんなにも楽だったのか。
楽ではあるが、少し不安だ。
来年は、バリウム検査しよう。
発泡剤とバニラ味のバリウムを飲んでから、グルグル回る機械に、身を任せよう。そうしよう。

あと、眠気が襲ってくるので、その時は寝る事にする。

尊さセンサー発動中

夜、仕事帰りに高校生の男女とすれ違った。
後ろの方から、男子の声で「じゃあ、信号までな。」という声が聞こえたので振り返ってみると、男子が女子をおんぶしていた。
それを見て「青春だな。」としみじみ思うと同時に、尊さを感じた。

平和が具現化されたかのようでもあった。

この光景を見て、やれ羨ましいだ、気に食わないだの言って、妬みや嫉みをガソリンにしていく時代ではない、これからは共鳴の時代だ。
これを糧にして、向上していくのがスタンダートだ。

これからも、青春と尊さを認識しては私の糧にしていく。
おんぶしていたシルエットは、見ているだけで御利益があるかのような尊さだった。
ありがたや。

最近思う事は、玉子の値段が2段ロケットどころか3段ロケットのごとく連続で値上がりしてないだろうかという事だ。

220円台の卵が300円近くになっているのを見て、ロバートデニーロのように口をへの字にして、両方の手の平を上に向けて肩をすくめながら、2度見してしまった。(映画アナライズミーのDVDの表紙と同じ顔。)

値上げするのは仕方が無いが、もし値上げの要因が落ち着いたら値下げしてくれと思う。切実に思っている。

 

 

 

 

 

シャガム!!

普段、神様に祈る事はしないが、便意があった時は、使用するトイレが洋式であることを期待して、祈ることがある。実際にはTOTO及び、トイレを設置した業者に対して祈っているが、それぐらい和式が苦手だ。
たまに、洋式と和式が並んで設置されているトイレがあるが、もし和式が使用できたとしても、スルーして後ろの人に譲った後に、洋式に並ぶくらいに和式が苦手だ。
「背に腹は代えられん!!」という緊急事態でない限り、和式の使用を回避したい。
そもそも、しゃがむ体制が一苦労なのに、その上排泄するなんて、床体操のⅠ 難度の「ナゴルニー」に匹敵するぐらいの高難度なことを要求してくるではないか。

前に、昭和の初期頃に撮影された、白黒の集合写真を見たことがあった。
全員袴を装着していて壮観だったが、それと同時に「トイレは和式で、汲み取り式だから、大変そうだな。」と思っていた。
昔、剣道部にいたので袴を装着した際のトイレは結構大変だった。
トイレの個室のドアに袴を掛けたりするので、気軽にトイレに行けなかった記憶がある。

だから、和式が苦手なのだ。
今日も日本の何処かで、トイレの前で祈っている人がいたら、それは多分「起動戦士・ワッフルなのです。」

ちなみに、ナゴルニーはこんな技です。
人間は、こんなに回転できるのだなと驚きました。


神頼みはしないけど、トイレでの「紙・頼み」はしても良いかも知れない。
という事を思いついたのだけど、流石にアレすぎるので、書くのをためらったが、書き残すことにした。

飲むか、飲まれるか。

お酒を飲むか飲まないかで迷っていたら深夜3時を過ぎていた。

アマゾンプライムや動画を見て仮眠していただけなのに、時間が経過するのが早すぎる。

私の時間は何処に行った?チーズはどこに消えた?そんな事は知らないし、この本は読んでなかった。

話を戻すが、今日はお酒は飲まずにノンアルコールビールを飲むことにした。

最近はノンアルコール飲料の種類が豊富になったと感じていたが、その理由には、外で飲む機会が減り、家でお酒を飲んでもストレス発散に繋がらないと思う人が増えたからではないかと考えている。

アルコールを飲まなくなった原因は、ある程度ビールに近い苦味がある炭酸で割られた液体なら何でもよくて、極端な事を言えば麦茶の炭酸割で良かった事に気がついたからだ。

私と同じような考えを持っている人が多いのかも知れない。
外で飲む機会が皆無になって数年が経過すると、いかに飲酒がお店の雰囲気や状況によって左右するのが分かった。
家以外で飲むという非日常の中でこそ、飲酒という行為が魅力的になるのであって、日常である家の中で飲んでも気分が上がらないのは理解はできる。

お酒は飲みたいから飲む以外に理由はいらないし、酒の席の説教も御託を並べるのも時代遅れで、それらは素面で言う時代に突入している。

どちらも煙たがられるのは変わらないけど。

似て非なるもの。

牛丼が好きだ、しかし、ファーストフード店が苦手なので、半額で牛肉が手に入ったら、牛丼を作成している。
前回、適当に調理した牛丼が美味しかったので、今回はより完成度の高い牛丼を目指した。
料理はシンプルが一番だ。
工夫によって美味しくもなるし、不味くもなるのが難しいところでもある。

牛肉と一緒に牛蒡も煮込むと美味しくなるらしいので、さっそく試してみた。
牛蒡の風味と割り下が煮込む前から、相性の良さを感じさせる。

煮込んで見て分かったが、これ「牛蒡と牛肉のしぐれ煮」じゃないか。
味も完全にしぐれ煮だった。
これをレトルトパックに入れて通信で販売したいくらいの美味しさだったが、私が食べたいのは牛丼だ。
私の口から、牛丼からどんどん遠ざかっていく。

そもそも、今回は段取りが良くなかった。
調理が完成した時、炊飯器がお米を浸漬していた時点で察するべきだったと思う。
しぐれ煮も牛丼も近くて遠い存在だ。
私にとってその二つは、外見は同じ大福でも、中身はこしあん粒あんくらい違う。
同じカテゴリーに入れられてしまうが、お互い強烈な対抗意識をもっているのが、しぐれ煮と牛丼の関係性ともいえる。
話は変わるが、料理が一番美味しく感じられる瞬間は、味見で一口食べた時だと思っている。
最初の一口が永遠に体験できれば一番ベストたが、何回経験しても、常に初めての境地に至るためには、悟りを開くのが手っ取り早いのではないか。
悟りを開きたいと考えていること自体、煩悩にまみれている証拠なので、いっその事、煩悩を持ったまま悟りを開く事を目指してもいいのかも知れない。